対談
脱受験競争時代を考える

受験がすべてといわれてきた子どもたちの学習環境が変質してきています。受験競争は特定の層のものとなり、多くの子どもたちは競争をことさら意識しないですむ進学スタイルを希望するようになっています。学習の大きなモチベーションとして君臨していた受験の圧力が弱まり、子どもたちの学習に対する意識は大きく変わっています。脱受験競争時代は教育をどこに導くのか、さまざまな視点から考察していきたいと思います。
ごいっしょに考えてみませんか?

第1回 子どもたちの学習生活はどう変わったのか

耳塚 寛明(みみづか・ひろあき)
お茶の水女子大学文教育学部教授。専攻は教育社会学。1953年長野県生まれ。東京大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程中退。青少年の進路形成に関する社会学的研究に従事。最近はとくにフリーター(高卒無業者)について調査をし、彼らがマスコミの言うような自由な若者たちではないことを構造的に指摘する。著書に『変わる若者と職業世界 トランジッションの社会学』(学文社 共編著)など。
樋田 大二郎(ひだ・だいじろう)
聖心女子大学文学部教授。専攻は教育社会学。1955年静岡県生まれ。東京大学教育学部卒業。同大学院教育研究科博士課程中退。学校内外で行われる学習のさまざまな様式について関心が高い。来年度から10年ぶりにイギリスに留学。ロンドン大学キングスカレッジでイギリスの公教育制度などについて研究調査を行う予定。著書に『教育言説をどう読むか』(新曜社 共著)など。


日本の子どもの学習行動は、90年代に大きな変貌を遂げた

<耳塚寛明 教授> <樋田大二郎 教授>
司会 今回はベネッセ教育研究所の学習基本調査の設計をしていただいた、お茶の水女子大学の耳塚寛明教授と聖心女子大学の樋田大二郎教授に、1990年代の子どもたちの学習をめぐる意識や行動の変化について、調査の結果を踏まえてお話しいただきます。
 今回の調査は、第1回を1990年に、第2回を1996年に、第3回を2001年に実施したものですが、まず、この調査を行った10年間というのは、子どもたちの学習環境という視点から見てどのような時代だったのでしょうか。

耳塚 振り返ってみますと、第1回の調査の企画をしたのが1989年くらいであったかと思いますが、ちょうど臨時教育審議会が87年に終わりまして、言ってみれば、“失われた教育の10年”に突入する前夜ではなかったかと思います。 89年の時点で生活科の導入等が行われる学習指導要領が告示されて、その後指導要領の改訂により学校5日制が順次導入されていくといった時代であったわけです。そして90年代を通じて、「新しい学力観」とか「自ら学ぶ意欲」とか「社会の変化に主体的に対応できる能力」などがずっと求められていくことになります。
 第2回を実施したのは96年ですが、ちょうどこのあたりが、新学力観によって学習を組織するということが本格化した時代ではなかったかと思います。そして第3回が今回、2001年ですが、この間には教育課程審議会の答申も出まして、また学力低下論争も全国的な広がりをみることになりました。第3回の調査は、学力低下論争の真っただ中での調査ということになります。
 私のお茶の水女子大学の同僚で、同じ教育社会学を専攻する酒井朗先生という方がおりますが、彼が著書のなかで“エスノペダゴジー ethno-pedagogy”という言葉を使っています。エスノというのは元々「民族の」「人々の」という意味ですが、学校現場の教員たちが慣習的に身につけている教授学、教育方法、教育観などを全部含めて、日本の教育の特徴をエスノペダゴジーという言葉で表現しました。
 今こういうデータなどを見て考えてみますと、90年代はそのエスノペダゴジーが壊れた時代ではなかったか。“失われた教育の10年”と申しましたが、90年代というのはそれほど大規模な変動が、学校現場にまで及んだ時代ではなかったかと思います。

  

学校外の学習時間が減りながら、授業はわかりやすくなっている

司会 それほど大きな変動があったというのは、どういう点から感じられているのでしょうか。調査項目を挙げながら、順次ご説明いただきたいと思います。

耳塚 最初にご紹介するのは「学校外の学習時間が減っている」という、学習時間の減少を示すデータであります。これは塾などを含む、学校の外での学習時間についてですが、1990年の時点と2001年の時点を比較しますと、いずれの学校段階においても「ほとんどしない」「およそ30分」という生徒の比率が増えています。逆に2時間以上学習すると答えた者は減っています。
 このことと関連して、「家庭で学習する日数」つまり週のうち何日くらい勉強するかをたずねたデータがあります。ここでは塾などでの勉強は除いてあります。中学生についても高校生についても、「家ではほとんど勉強しない」と答える生徒は増えています。「ほとんど毎日する」という生徒は中学生ではあまり変わりませんが、高校生では90年から2001年まででおよそ1割くらい減少しています。塾での勉強を除いたデータだということを申しましたが、ではその分通塾率が上昇して家ではなくて塾で学習する子どもたちが増えたのかというと、もちろんそうではありません。格段の通塾率の上昇というのもまた見られないわけです。学校外の学習時間というのは、もちろん学力とイコールではありません。しかしながら、これだけの学習時間の減少が、常識的に考えて何らかの意味で学力の低下に結びつかないはずはないと思います。
 実は、その一方で、「学校の授業がわかるようになっている」というデータがあります。授業の理解度を見てみますと概して右上がりのグラフが描けています。つまり「ほとんどわかっている」という子どもと「70%くらいわかっている」という子どもは増加傾向にあるということを、このデータは示しています。

  

学校での学習に関して、自己評価が甘くなっている可能性が

司会 学校外での学習時間が減少しているにもかかわらず、授業がわかるようになっているというのは、どう解釈すればいいのでしょうか。

耳塚 これについては、3つの解釈が可能ではないかと思います。1つ目は「学校の授業がわかるようになっているというのは事実である。どうしてそういうことが起こったかといえば、教授法の工夫が進展した。教員の資質が向上した。そうしたことが実を結んで、実際に授業の理解度が上がった」という理解です。もしそうであれば、90年代の教育改革は、落ちこぼしを少なくすることに貢献した、成功したということになります。
<耳塚寛明 教授>
 2つ目の解釈も、やはりこの傾向は事実であるとする見方です。ただしそれは、「教育内容を易しくした結果である。数字を切り下げることによって理解度のアップがもたらされた」という考え方です。この場合でも教育改革は一定の成果を上げたとみることができるかもしれません。しかし一方で、このケースは学力低下論争に再度火をつける結果にもなります。高等教育研究者からの批判は、この教育内容の水準の切り下げそれ自体を問題としているからであります。
 3つ目の説は、これは幻想だととらえる説であります。「この結果が示しているのは、単に『授業がほとんどわかっている』『70%くらいわかっている』という青少年の回答が増えた、つまり彼らの主観のなかで理解度が上昇したのだ」という解釈です。つまり本来の学力とは切り離された形で、理解度の主観的評価が行われやすくなっているのではないか。または、私たちが社会調査のなかで“イエステンデンシー yes-tendency”と呼んでいるもの、すなわち自己を肯定的に評価する回答傾向が強くなっているのではないかということです。

  

小学生はハッピー 中学生はアンハッピー

樋田 わかる・わからないに関しては、小学生でおもしろいデータが出ています。「授業の内容がむずかしいと思いますか」「授業の内容が簡単すぎると思いますか」の2つの相反する質問に答えてもらっていますが、一方で「授業の内容が簡単すぎると思う」が非常に増えています。しかし他方で、「授業の内容がむずかしいと思う」も増えています。こうした相反する傾向が同時に現れたことについて、2つのことが言えます。1つは学校外ですでに授業内容を学んでいる子どもたちが増えている可能性があるということです。つまり学校の指導法や教科内容は「むずかしい」にもかかわらず、塾などですでに学んでしまっているために「簡単すぎる」が増えたということです。もう1つは、授業はやさしくなったが、同時に、今の学校はわからない子にわかるまで教えなくなった。こうした結果、学校内で授業を楽しむ子と授業についていけない子に分かれてしまっている可能性があるということも指摘しておきたいと思います。
 また、小学生は1990年と2001年を比べると、国語・算数・理科・社会すべての教科で、授業が「わかっている」という割合が非常に高くなっています。しかしながら中学生は必ずしもそうではありません。とくに気になるのは、中学生の理科と英語では1996年と2001年の間でむしろわかるという割合が減っていることです。調査結果では、小学生はハッピーが増え中学生はアンハッピーが増えるという傾向が、多くの側面で出てくるんですが、やはり高校受験を控えている、あるいは高校受験と関わる教育が行われていることと関連していると思います。小学校のように進路指導は一切しない、それから興味関心優先で楽しければいいという授業を受けているのであれば、多くの子どもたちは授業がわかってハッピーだけれども、中学生になると高校受験を前提とした授業や指導でどんどんアンハッピーになると思われます。

  

高学歴志向が弱まり、あきらめが早くなった

司会 樋田先生は、子どもたちの学校外の勉強時間が減り、授業もわかりやすくなったといっても、必ずしもハッピーそのものではないということを指摘されているのだと思いますが、進学についての意識はどうなんでしょうか。

樋田 小学生と中学生の進路意識の変化で重要なのは、「高校まで」とする回答と「専門学校・各種学校まで」とする回答が増加をみたことだと思います。四大志望者の比率には、そう大きな変化はありません。全般的には上を目指してがんばる高学歴志向は弱まったと見ることもできるかもしれません。
<樋田大二郎 教授>
 ただし、「高学歴志向が弱まっている」ということに関しては、違う視点からの、そして非常に憂慮すべき解釈もあります。小学生に関してなんですが、将来どの学校まで進みたいか「わからない」という数字が、90年の32.7%から2001年には20.6%まで下がっています。つまり、「高校まで」や「専門学校・各種学校まで」の増加は、「わからない」の減少と裏表の出来事だったのであります。
 小学5・6年と高学年になってくると、塾に行っている子は将来どんな高校に行くか、あるいはどんな大学に行くかがだんだん見えてくる。塾に行っていない子どもたちも、行っている子と比べれば明らかに学校のなかで学力が違うことが自分でもわかっていますから、自分の進路が見えてきてしまっている。これは重要なことだと思います。90年では少なくとも小学校段階では「わからない」という子がたくさんいたのに、2001年では、子どもたちはすでにこの時点で自分の将来をある程度見ざるを得ない、見せつけられるという状況が生まれつつあるということを示しているのではないか。つまり、上昇志向がないのではなくて、早々とあきらめざるを得なくなっている可能性もあるということです。

  

競争の緩和による学習の動機づけの弱まり

司会 高学歴志向であるかどうかだけではなく、子どもたちの学習そのもののやる気というのはどうなんでしょうか。

耳塚 「成績の自己評価が低下している」という表題がついた高校生のデータに関して、とくに注目していただきたいのは、「あなたはどのくらいの成績がとれたらいいと思いますか」という質問に対する回答です。これを見ると、回答がわずかずつではありますが徐々に「下の方」にシフトをして、「上の方」の回答が減っていく傾向が見られます。どのくらいの成績をとりたいと思っているのか、その意欲のことを私たちは“アスピレーション aspiration”と呼んでいますが、その低下が見られるということです。学力達成への意欲が徐々に低くなってきているわけです。このことは、先ほど申し上げた学校外での学習時間が短くなっていること、それから家庭での学習頻度が小さくなっているという結果と符合したものだと思います。

樋田 子どもたちの学習を陸上競技にたとえると、昔の学校の勉強は100メートル競走とか200メートル競走のようなもので、つまりルールを決められていてあとはどれだけ努力をするか、どれだけ自分で工夫するかといったことが重要な要素で、そしてその結果が評価となって表れてくるわけです。自分で達成度を確かめながら努力することもできるし、努力や工夫に応じて他者からの評価も得られました。当時は努力とか工夫とか勤勉とかが求められた時代でした。それに対して、今は強いて言えば、学校という名の陸上競技場のなかにたくさんの子どもたちが入れられて、そのなかで誰が一番楽しんでいるか競いましょうという、そういう状況ではないかと思うんですね。そうなると、しゃかりきになってがんばるよりも何か与えられたものを楽しんで、その楽しみ方も人それぞれであっていいということになる。がんばって勉強しようという気持ちが出てこないと思います。

耳塚 成績アスピレーションに関連して、もうひとつ高校生のデータを挙げておきます。「あなたは勉強について、次のように思うことがありますか」と、主として勉強をめぐる悩みについて一連のことをたずねた質問があります。とくに注目しておきたいのは、「先生は成績にこだわりすぎる」と「親の期待が大きすぎる」という回答が低いことです。いずれも高校の先生あるいは保護者からの、勉強や受験に関するプレッシャーの低下が起こったのだというふうに解釈できるのではないかと思います。このような周りからのプレッシャーが減ったことも、アスピレーションの低下に何らかの影響があるのだと思います。

  

受験競争時代から脱受験競争時代へ

司会 今までのお話をまとめていただくと、どういうことになるでしょうか。

耳塚 第一に学習時間や学習頻度の低下。第二に進路志望にみる高学歴志向のかげり。第三に成績アスピレーションの低下。第四に先生や親からのプレッシャーの低下。このように並べることができますが、これらは総じて90年代に生起したある変化を非常にうまく反映しているように思われます。その変化というのは、「受験競争時代」から「脱受験競争時代」へ移行したということです。
 こういうことが起こった理由はいくつかありますが、第一に考えられるのは少子化。それから大学の収容能力が維持されたことによって客観的な意味で受験競争が実際に緩和したということ。第二に高学歴志向あるいは学校での学習に関与する、学校での学習の価値を相対化する言説が非常に普及したということも見逃せないのではないかと思います。
 例えば、学校での勉強なんて役に立たない、受験に必要な知識は無意味だ、学歴を志向するより自己実現の方がずっと価値のあることだ、自分探しの旅に出てみようとか、いろいろな言説があるわけです。こういう言説は、中心に受験競争=諸悪の根源説と言いますか、それがあってそこから派生したものではないかと思います。
 実は、こうした言説の説くところは、教育政策もまた共有していたものでした。というのは、つい最近に至るまで、教育政策が最大のターゲットとしてきたのは、受験競争から青少年をいかに解放するかということだったと思います。熾烈な受験競争から青少年を解放する、彼らの生活に何とかしてゆとりをもたらす、そのことに最大の狙いがあったのではないか。これは新しい学力観などと通底していることなんですが、つまりこう考えると、言説というのが高学歴志向や学習の価値というものを相対化しただけではなくて、教育政策もまた同時にこういう結果をもたらすのに一役買ったのではないか、脱受験競争時代をもたらしたのではないかというふうに、私は考えております。

  

脱受験競争時代であっても受験競争の継続する層がある

司会 脱受験競争時代によって生じてくる、新たな問題点というのは何でしょうか。

耳塚 1つは、受験競争の時代から脱受験競争の時代へと言いましたが、実は脱受験競争時代といってもすべての者がこの競争から解放されたわけではないということです。
 つまり、「高校まで」「専門学校・各種学校まで」とする者が増加傾向にあるからといって、このことがいわゆる特定のブランド大学への進学志向を弱めることになるとは言えません。恵まれた環境にある青少年は、より早期の段階からエリート高等教育機関への進学準備を進めつつあります。
 今生じつつあるのは、受験競争の弊害が弱まったことではなくて、受験競争の時代が次のステージを迎えた。つまり階層再生産のために受験が局所的に利用されるというステージになったということであって、受験競争の時代が終わったわけではないということです。
 受験競争ということ自体は、今なおネガティブなニュアンスで語る人が多いと思います。確かにそういう否定的な側面をもつことはあるだろうと思います。しかし半面、受験競争というのは生活環境の制約から人々を解放して、誰でも上昇移動をめぐる競争に参加させることができます。そのように考えると、その肯定的な側面も評価しなければならない。要するに90年代というのは、この人々の上昇移動の乗り物としての学校教育というものが、すべての人々に開放されるのではなくて、徐々に一部の人々の乗り物になりつつある、そういう変化の出発点ではなかったかと、私は見ています。

  

脱受験競争時代に学習の動機づけを探す

耳塚 さらに、もっと大きな問題としては次のようなことがあります。受験競争時代には、勉強しないと大学に行けない、あるいはいい就職ができないという打算的な動機づけであったにせよ、少なくとも青少年は学校生活にコミットしていたし学習もしていた。ところが脱受験競争の時代になって、そうした打算的な動機づけから解き放たれてしまった青少年というのは、学習に戻らなくなるのではないか、という問題が生じると思います。
 教育関係者は、長い間受験があるから自分たちが信じる本当の教育ができないのだと言い続けてきたわけです。つまり受験競争というのは教育界にとっても真の教育なるものが実現しないことを弁解する免罪符だったのではないか。しかしもはやそういう言い訳が通用しない、真の教育とか真の学びというものが可能な環境が到来しつつあるわけです。一体学校とか教育関係者は子どもたちを学習へと動機づける方法を持っているのか、それが問われているのだろうと思います。

樋田 先ほど動機づけに絡めて、子どもの学習を陸上競技にたとえましたが、「興味・関心モデル」の学習の動機づけか、あるいは「競争モデル」の学習の動機づけかということで考えてみた場合、もちろん「競争モデル」の学習の動機づけというのはとても抑圧的です。そしてこれが落ちこぼれをつくってきたのも確かです。落ちこぼしといった方がいいという議論も納得できます。そういう意味では、教育改革の方向として抑圧的なものはやめた方がいい、だから競争モデルから「興味・関心モデル」に持っていくことが必要だと言われているわけです。
 しかしながら、興味・関心で言えば、学校のなかよりも学校の外の方がおもしろいことがたくさんあるんです。いくら学校という名の競技場を改築してディズニーランドみたいに楽しいことを持ち込んだとしても、そこで楽しませてもらうだけだったら子どもはいつかは飽きがくるでしょう。そういう意味で、興味・関心モデルだけで迫った場合、学校が果たしてどこまで子どもたちの興味・関心をつなげるのか、またはつなぐための方法を持っているのか、とても疑問です。
 では、「競争モデル」も良くなくて「興味・関心モデル」も良くないのなら、一体何が考えられるのかというと、私はよく「キャンプモデル」という言葉を用います。どういうことかというと、自然のなかに子どもたちを連れていくんです。自然というのは甘くないですから、親と子が一緒になって闘うわけです。最近のオートキャンプのように都会をそのまま自然のなかに持ち込むのではなく、ドキドキ、ワクワク、ヒヤヒヤ、フーフー、オロオロ、ガンガン…などのあるサバイバル風なモデルですね。楽しいから努力をするし、努力するから楽しいわけです。子どもが大人になって現実社会に参加する際には、すでにある社会に適応せざるを得ないところがあるし、あるいはそのまま適応するのではなく工夫して少しずつでも社会を改善していかなくてはならない。自分を取り囲む社会と満足いく関わりを持ちたいという理由から、否が応でも知識や技能を身につけなければいけないわけです。そして、知識や技能を身につけると社会と満足のいく付き合いができるようになる。「キャンプモデル」では、楽しむことを学び、楽しむための方法を学ぶのです。
隣のキャンプで楽しそうなことをしている人がいたら、こっちも負けずにやりたいという気持ちも当然生じてくる。みんなが同じことで楽しもうとして限られた資源を争うようになったら競争モデルが始まりますが、キャンプは豊かで多様な資源を利用して自分たちなりに楽しむのが目的ですから、努力や工夫の仕方はさまざまです。
自分が楽しいことをするためには、やりたくなくても我慢してしなければいけないことがある。そしてやりたくないこともやってみたらそのこと自体が案外楽しいし、自分なりのオリジナリティ−も出せる。そういったことが当然であるような学校モデルがこれからは必要だということです。

司会 今日はお忙しいところ本当にありがとうございました。
(新宿野村ビル・ベネッセコーポレーション内 TV会議室)