2021年8月末に予定されている東京2020パラリンピックを前に、障がい者スポーツや、障がいの有無などによらず多様なあり方を認め・尊重しあう「共生社会」というキーワードを目にする機会が増えています。パラリンピック開催に先駆けて、2021年5月に国際パラリンピック委員会(IPC)公認教材『I’mPOSSIBLE(アイムポッシブル)』日本版の最新教材がWeb上で公開されました。ベネッセこども基金は、この日本版教材を公益財団法人日本障がい者スポーツ協会日本パラリンピック委員会、日本財団パラリンピックサポートセンターと共同で開発しています。「子どもたちに、一人ひとり違う個性に気づき、社会のありかたを考えるきっかけをつくりたい」と、その制作に携わったベネッセこども基金の担当者に、教材開発に込めた思いを聞きました。

パラリンピックというイベントではなく、その本質を日本の子どもたちに伝える“日本版”教材を

『I’mPOSSIBLE』は、世界中の子どもたちに、パラリンピックの魅力や価値を伝え、パラリンピックムーブメントを広めることを目的に開発された教育プログラムです。この教材ができた背景には、2012年に行われたロンドンパラリンピックでの成功がありました。当時作られた教育プログラム「Get Set」によって、若い世代の考え方や行動が変わったばかりでなく、それが親や大人の世代にも影響を及ぼし、社会に様々な変化をおこしたと言われています。

その流れを受け継ぐため、まず国際パラリンピック委員会(IPC)が『I’mPOSSIBLE』国際版の作成を決定、さらに東京でのパラリンピック開催が決まったことを機に、日本版の構想が2016年にスタートしました。その制作に携わることになった小松ゆかり(公益財団法人ベネッセこども基金)は、開発の経緯や教材制作について次のように語りました。

「パラリンピックというイベントを伝えるのではなく、共生社会への気づきを子どもたちに促す教材であり、その根底にある4つの価値「勇気」「強い意志」「インスピレーション」「公平」を伝えたり考えたりする役割を持つという趣旨に賛同し、ベネッセこども基金として協力をさせていただくことになりました。しかし、元の国際版教材だと、例えば「アルファベットを並び替えて、4つの価値を表す正しいスペルを完成させましょう」などの問題があり、そのままの直訳では伝え方が難しかったことや、子どもたちに普及させるためには日本の学校の授業で取り入れやすい形にすることが必要――そのためには、先生方に提示する指導案が要る、などさまざまな問題があり、1つひとつの課題を考え、関係各所に相談しながら、単に国際版の翻訳をするのではなく、日本の子どもたちにパラリンピックの本質をわかりやすく伝えるための新しい“日本版”教材の開発がスタートしました」

「以前、通信教育の教材を制作していたこともあったので、そのステップを思い出しながら、まずは学校の先生や教育の専門家の先生などに相談し、どんな形であれば子どもたちに伝わるのか? を考えました。最初の頃は悩みの連続で、中でも一番大変だったのは私自身にパラリンピックや障がいのあるかたへの知識・理解が足りなかったことです。そのため、大会の関係者や選手、当事者の方とたくさんお話ししながら、考え方や、困っていること、変えていきたいことを聞いていきました。そうして理解を深める中での気づきやヒントを反映し、少しずつ教材が形になっていきました」


制作された『I’mPOSSIBLE』日本版教材。教材の名前『I’mPOSSIBLE』は、「不可能(Impossible)だと思えたことも、考え方を変えたり、少し工夫したりすればできるようになる(I'm possible)」という、パラリンピック選手たちが体現するメッセージが込められた造語。

子どもたちの素直な反応に、まずは「知ること」の重要性を実感

こうして制作が進められていった後、『I’mPOSSIBLE』日本版は2017年に初めて公開された小学生版を皮切りに、中学生・高校生版へと展開を広げ、内容もバリエーションを少しずつ増やし、2021年5月にはその集大成である最新版として「東京2020パラリンピックのレガシーについて考えてみよう!」がWebでリリースされました。

最新版教材「東京2020パラリンピックのレガシーについて考えてみよう!」より。構想の段階から障がいのあるかたを含めた多様な人が使うための施設として、ユニバーサルデザインに徹底的にこだわって建設された国立競技場をテーマに、使う人の目線に立った配慮や工夫を知ることで、共生社会への理解や気づき、行動を促す内容となっている。

これまで公開された『I’mPOSSIBLE』日本版教材は、様々な学校の総合的な学習の時間、体育、道徳や人権教育の授業の中で活用されていますが、小松もその授業の一部に立ち会う中で印象的だったのが、子どもたちの素直な反応とその変化だったと言います。

「例えば、パラリンピック選手の映像を見て自分なりのキャッチフレーズをつけてみよう、という授業で、ある女性選手を見て最初は「かわいそう」という反応だったのが、映像を見てその選手のコメントを聞き、これまでの彼女の生き方に触れたあと、小学5年生の男の子がつけたキャッチフレーズが「あきらめなかったからこそ得た、この美しい笑顔」でした。障がいのある人=少し遠い存在でかわいそう、という最初のイメージではなく、知ったことで身近に感じ、ちゃんと「その人らしさ」に気づくことができる。そうした子どもたちの姿には驚くものがあります。「まずは知ること」、それが本当に大切なことだといつも感じます」


みんなが幸せになる社会になるにはどうしたら? 本気で考えることができる世の中に

「一方で、日本特有の考え方だなと思うこともあります。ある授業で、「自分が乗っている満員のエレベーターが止まった階に、車いすの人がいたらどうしますか?」という質問に、日本の子どもたちの中は、エレベーターのすぐ隣に階段があったとしても「順番だから(車いすの人は次のエレベーターを)待つのが公平だ。」と答える子がいます。また、譲りたいと思ってもなかなか行動に移せないという声も聞きました。それに対し、車いすやベビーカーの人に譲るのが日常的で、「エレベーター以外に選択肢がないのだから、車いすの人に譲るべきだ」と、条件を照らし合わせて合理的な配慮が自然と行われている国もあります。多様な価値観を感じることができました」

「そうした違いに触れるたび、どうしてなんだろう? と思ってきましたが、日本では障がいのある人は常に“特別対応”。区別をされていることが多いですよね。学校でも障がいがある人を「特別支援学校」に分けることで、きめ細かい対応ができる反面、いろんな人が一緒にいる場が限られるという面もあると思います。いろんな人の視点に立って物を見たり、考える、という経験が圧倒的に足りない。もっとお互いを知り・考える機会が増えることで、変わるものがあるのではと思います」

最後に、パラリンピックが終わった後に思い描く社会をこう語りました。
「これまでの日本は、経済優先、そしてマジョリティを優先とした社会であったように思います。でも、この先は、障がいの有無にかかわらず、お互いの違いを尊重し、誰もが活躍できる、そんな社会になるためにどうしたらいいのか? みんなが本気で考え、対話できる世の中になってほしい。ロンドンパラリンピックで子どもたちの意識が変わり、やがてそれが大人にも影響を与えたように――パラリンピックが終わった後の日本でも、一人ひとりの違いを受け入れ、みんなが幸せに生きることができる社会へと変わっていく、こうした教材がそのひとつのきっかけになればと願っています」


情報協力

小松 ゆかり(こまつ ゆかり)

小松 ゆかり(こまつ ゆかり)
公益財団法人ベネッセこども基金事務局長 長らくベネッセコーポレーションにて「進研ゼミ」の小学生向けの教材企画編集を担当。場事業を経て、2016年度から「ベネッセこども基金」に出向。経済的困難や重い病気を抱える子どもを支援するための助成事業のほか、パラリンピック教育教材開発、小学生向けの情報モラル教育などを推進。2020年度より現職。

『I'mPOSSIBLE』日本版教材 https://www.parasapo.tokyo/iampossible/
ベネッセこども基金 https://benesse-kodomokikin.or.jp/